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2001/08/14 act-9 宇和町 その2 |
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| 民具館を出ると正面にいかにも由緒ありげでハイカラな外観の建造物が見える。これが開明学校で、かつては学校として使われていた建物。1882年建造。白壁に黒瓦の擬洋風建築。宇和町は明治の時代から学校教育に非常に熱心だった町であったことが伺われる。同じく明治期有数の学校建築として知られる、長野県松本市の開智学校とは姉妹館の提携を結んでいる。
内部は資料館として開放されていて、さきほどの学遊券で入館することが出来る。観光客はほとんどおらず、家族連れの一団が一組居るだけ、おかげでゆっくり見て回ることが出来た。外観は古めかしいが、中はしっかり冷房が効いている(というより、効き過ぎている)ので、この点も助かった。一回は普通に展示スペース。二階は昔ながらの教室の状態が再現されていて、アンティークと化しているピアノ。当時の学校教材などが展示されていて視覚的にとても楽しい。 開明学校の右手には歴史民俗資料館が併設されている。この券でついでに見て回れるらしいので早速チェック。冷房の無い室内に瞬間、立ち眩みを感じるが頑張って見学。ここでは宇和町で発掘された縄文期から室町時代までの遺物を展示している。 開明学校の左側には申義堂。これは開明学校に先立つこと1869年に左氏珠山門下等によって建造された私塾で、1872年以降は開明学校の校舎としても使用されている。いわば、宇和町の学校建築物の元祖とも言うべきメモリアルな存在なのだ。こちらは和室に平机と極めて和風な装い。ま、明治間もない頃なんだから当然か……。 |
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| さて開明学校、申義堂と回ってきて、ついに宇和町最大の見所、米博物館に向かうことにする。ここまでの文化施設は博物館を除けば、中町周辺に比較的固まってくれていたのだが、この米博物館は少し離れた高台の上に建てられている。細い路地を抜け、民家の間を徘徊。人通りが少ないだけに目立っているような気がする>自分。坂道を回り込むように上っていくとその先が米博物館。
写真を一目見て、これ学校じゃん、と思われる方も多いと思うのだが、そう、これもまた宇和町で小学校として使われていた施設を移築したものなのだ。1928年の建造。半世紀以上現役として活躍。現在では校舎としての役割を終え、1991年にこの地に移設され米博物館として生まれ変わった。ちなみにこちらは第一校舎で12部屋の教室がある。 |
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入り口で学遊券を見せて半券をもぎってもらい入館。延々と続く長大な廊下に圧倒される。長さ109メートル。廊下の左半分は土間でそこに下駄箱があって、右側の板の間の廊下に上がるようになっている。子供を対象にこの廊下を雑巾がけするスピードを競うコンテストが開催されているようで、廊下には歴代の記録者の名前が掲示されている。「大人でもやってもいいよ」と係のじーさんに言われたが、速攻辞退した。 靴を脱いでスリッパに履き替えて内部へ。なんで米博物館なのか、全くの謎だが、校舎を転用しているだけあって、これはどう見ても学校である(当たり前)。私事ながら中学一年の時だけ、木造校舎で過ごした経験がある筆者としは、懐かしさのツボを激しくプッシュされてしまった。 しかし教室内部に入ると、各種農機具、様々な種類の稲標本、お米の取れるまでを説明した模式図などなどが展示され、やっぱり博物館なのだと少し安心。しかし奥の方へ進むとネタが尽きてしまったのか、普通に教室としか思えないスタイルの部屋が登場。開明学校に比べると、自分の時代に近い光景だけに、これはこれで懐かしくていいけど、なんか中途半端だぞ。 |
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裏手に回ると第二校舎。こちらも開放されているが、廊下に余剰の展示物が積み上げられていて、少々未整理な感じは否めない。しかし作りはこちらの方が荘重で立派な感じがする。更に裏手に行ってみると講堂がある。こちらは内部に入ることは出来ないのだが、現在でも宇和小学校の体育館としても利用されているのだそうだ。 米博物館ではトイレは離れになるので、校舎の端からサンダルに履き替えていったん外に出る。この博物館は高台にあるので、この猛暑の中でも時折いい風が吹く。眼下には新築された現在の宇和町立宇和小学校のモダンな佇まいが見て取れる。申義館、開明学校、そしてこの木造校舎と、教育にひとかたならぬ熱情を傾けてきた、この土地の学校建築にかける意気込みをひしひしと感じさせる、美しい建造物だと思う。 |
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| 米博物館に別れを告げて再び中町近辺にまで戻ってきた。幸い時間は余裕があるので、見落としたスポットをチェックしておこう。16時を回って、すこーしだけ、日差しも楽になってきた(気がする)。
まずは、二宮敬作住居跡を確認。考えてみるとまともに言及していなかった気がするが、彼は宇和町最重要クラスの偉人である。幕末の蘭方医にして洋学者。この地で長く医者として活躍。日本初の女医として知られるシーボルトの遺児イネは敬作に託され成長している。 ラストは鳥居門。1834年に庄屋の鳥居半兵衛によって建築されたもの。身分を越えて立派な門構えに藩からの咎め立てを受け、半兵衛は郊外の村にに左遷させられてしまい。以後、当地の庄家は清水家が勤めることになったという。 卯之町駅到着(16:40)。少し早く着きすぎてしまったようだが、体力的にもう保ちそうにないので、駅前の喫茶店で涼ませてもらうことにする。喫茶店ならではの異常に濃いレモンスカッシュがとてつもなく美味い。予讃線乗車(17:28)。あとはひたすら松山まで乗車あるのみである。途中左手に瀬戸内海と暮れゆく夏の太陽。見事な光景を見ることが出来た。あとは情けないことにずっと眠っていた様子。松山着(20:11)。疲れた体に鞭打って、繁華街の大街道まで歩く(市電乗れよ)。晩飯を済ませて宿に着いたときには21時を過ぎていた。 |
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余談
やっぱりこういうのに突っ込んじゃダメ?開明学校前にあった消火栓に書かれていた「すわられません」の文字。世に蔓延するら抜き言葉への強烈な抵抗なのだろうか、この地方独特の言いまわし?それとも敬語の一種?浅学非才の身なので、これほどの歴史的教育施設の前にある、消火栓に書かれている文字が間違っているなんて、おそれおおくて絶対に指摘出来ない。誰か説明して! |
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次回は松山観光編。カラダもうボロボロです。
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