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| 起床(8:00)。東萩駅近くのホテルで一泊。周囲には食べ物屋が無く、朝飯はコンビニで買ってきたパンを侘びしく摂取。今日は半日萩観光に費やす。萩の見所は3キロ四方の中にほぼ収まるのだが、さすがに徒歩ではシンドイ。観光客向けのレンタサイクルがあるのでこれを利用することにする。荷物も預けられるので楽だ。薄曇りで、陽射しは厳しくない。レンタサイクル(\500)はママチャリで決して快適な乗り心地とは言えないのだが、そうそう贅沢も言っていられない。
手洗川に沿って川上へ。まずは毛利家の墓所東光寺へ向かう。前方の山々をところどころ朝霧が覆っている。川沿いの道はサイクリングロードになっていて夏の朝ならではの爽やかな時間を堪能することが出来た。非常に気分爽快。サイクリングロードの終端が東光寺。既に大型の観光バスが何台か駐車場に入っていて、団体客がわらわら歩いている。さすがは盆シーズンの観光地。静かだったのはここまでだった。
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東萩駅
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東光寺三門
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三家老の墓
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| 東光寺は1691年創建。三代毛利吉就によって開かれた黄檗宗の寺院。拝観料は\300。丹塗りの総門は17世紀後半の作。屋根の上の摩伽羅(想像上の魚。頭は虎、体は鰐を模している。ちなみに摩伽羅の脚が無いのが鯱とされている)はいかにも黄檗宗ならでは。その先にある巨大な三門は高さ11.4メートルの二階二重門で1812年の建造。1698年建造の大雄宝殿に参拝。
続いて境内にある毛利家の墓所に向かう。その途中に元治甲子殉難烈士墓所がある。1864年の禁門の変の後、幕府に謝罪するため切腹した三家老(益田右衛門介・国司信濃・福原越後)や当時の藩内の政治抗争で命を落とした人々の慰霊墓所。
そしてその先の開けたところで、500基もの石灯籠が林立する一種異様な光景が展開される。奥にあるのが毛利家墓所。東光寺には三代吉就以降、奇数代の藩主の墓がある。
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毛利家墓所・東光寺
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吉田松陰宅跡
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久坂玄瑞の墓
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高杉晋作の墓
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吉田松陰の墓
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東光寺の総門に向かって右側の坂を上っていくと吉田松陰誕生の地に到着する。松蔭の実家、杉家はもともとここにあった。この地で松陰は19歳までを過ごしている。旧宅跡としては敷石をかたどったものだけが残されている。傍らには見事すぎる銅像が一基。題字は佐藤栄作らしい。
更に吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓所が20基ほどずらりと並ぶ。ここからは萩市街が一望出来、遠くの指月山までよく見える。ここまであがってくる観光客は、少ないのか周囲には誰もいない。
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松下村塾
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| これまでの道を戻って今度は松蔭神社へと向かう。かつては松本村と呼ばれた地域。この地へ杉家は移転しており、アメリカへの出国を企てて咎を受け、実家での幽閉とあいなった吉田松陰がこの地でかの松下村塾を開く。これが1857年のこと。多くの攘夷派長州藩士がここで育ち明治維新の原動力となっていったわけだが、どちらかというと幕府贔屓の筆者としては複雑な気分。 |
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松本川
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| 松本川に沿って東萩駅方面へ戻り萩橋を渡る。萩は毛利家36万9千石の城下町だ。その地形はユニークで市街地の部分が阿武川が松本川と橋本川の二つに分かれたデルタ地帯に形成されている。
防衛の拠点であった萩城はデルタ部分の突端に突き出た指月山に築かれており、自然の地形を見事に利用している感がある。河川と海で周囲を囲まれているために極めて攻めにくい構造になっているのだ。
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藍場川
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| 阿武川との合流ポイントを目指してしばしママチャリを走らせる。落ち着いたたたずまいの家屋が連なっている。夏の陽射しは堪えるが、走っていて気持ちが和む。
松本川と橋本川に別れるあたりで、内陸部に引き込まれている水路が藍場川と呼ばれる人口河川。1739年に開通。当初は大溝と呼ばれていたが、後に藍の専売所(藍場)が置かれたことから、次第に藍場川と呼称されるようになったと云う。観光ポスターなどでよく見かける萩の名所の一つだ。
藍場川の流れに沿って走ると、桂太郎の旧宅がある。戊辰戦争で活躍し、後に陸軍に入り陸軍大臣に、そして首相を三度も務めた人物。拓殖大学の創始者としても知られている(知らなかったけど)。藍場川から水を引いた庭園は小さいながらも美しい。
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桂太郎旧宅
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金谷天満宮
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| 途中左手に見える大層な神社は金谷天満宮。1186年に長門国守護であった佐々木高綱が太宰府より勧請したことに始まる。当時は奥金谷集落にあったのだが、1720年に現在の地に移されている。
江戸期にはここに大木戸が置かれ、城下町萩の表玄関として機能していたとされる。
更に直進すると萩駅。無骨な印象の東萩駅に比べ、あまりに優雅な駅舎に驚かされる。1925年開業で、何度も改修はされているものの、当時の形をそのまま現在でも残している。とても無人駅とは思えない。
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大照院・鐘楼門
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萩駅
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毛利家墓所・大照院
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| 萩駅にぶち当たったところで右へ。しばらく山陰本線沿いに進むと左手に大照院への入口が見えてくる。参道には等間隔で石灯籠が並び、奥に三門らしき建造物が見て取れる。延暦年間(782年〜805年)に月輪山観音寺として建立され、後に建武の時代(1334年〜1335年)に鎌倉建長寺の義翁によって大椿山歓喜寺と改称され同時に臨済宗の寺院となった。
萩藩初代藩主秀就はこの歓喜寺に葬られ、二代綱広は供養のためにこの寺院の大改築を決行。1656年に完成し、以後は霊椿山大照院と称されるようになった。以後偶数代の藩主が埋葬されている。こちらも東光寺同様無数の石灯籠が圧巻である。その数は603基にもなる。
ちなみに毛利元就とその子隆元の墓は広島県高田郡吉田町の郡山城跡に。元就の孫の輝元の墓は萩市内の天樹院跡にある。輝元は関ヶ原合戦の敗北後隠居しているので、萩藩の初代藩主はその子である秀就(元就のひ孫)になる。
入口の三門は鐘楼を兼ねており鐘楼門と呼ばれる。寺院と同じ1656年の建造。高さは7.66メートルにもなる。こちらの拝観料は\200とやや安い。他の観光物件から離れている立地のせいか団体観光客の姿は皆無。他に二組別口がいるだけで境内はいたって静かであった。人気がないせいもあるのだろうが、雰囲気的にはかなり寂しげ。建物も侘び寂び感が強い(有り体に言うとボロい)。
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橋本川
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平安古地区
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| いよいよ萩の市街地へ入ることにする。橋本川に沿って走り玉江橋を渡る。橋を渡ってすぐ右が平安古(ひやこ)と呼ばれる地域。江戸期には毛利家の上級階層の家臣の屋敷があった場所で、とりわけ古い街並みに保存されている。
城下町ではお馴染みの鍵曲も見ることが出来る。これはあえて道を折れ曲げて視界を悪くして、戦時の防御効果を高めるための工夫だ。
玉江橋から続く大通りへ戻って直進すると右手に萩市役所が見えてくる。その前にあるのが明倫小学校で、かつて明倫館と呼ばれた藩校がここにあった。この小学校自体も最近では滅多に見られない木造建築の校舎で、強いノスタルジー波を発していた。
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明倫小学校
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鍵曲
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木戸孝允誕生の地
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| 明倫小学校の手前の道を左へ。左手に市民球場を見ながら直進。城下町萩の中心部分に入っていく。ここも毛利家の家臣の屋敷が多かった地域。
まずは木戸孝允(桂小五郎)誕生の地へ。西郷隆盛、大久保利通と並んで維新三傑と呼ばれた長州屈指の成功者。久坂のように戦死もせず、高杉のように病気にもなる事もなく、したたかに幕末を生き延びている。屋敷の内部は無料で開放されており自由に見学出来る。
続いて高杉晋作誕生の地へ。と、思ったのだが門扉は冷たく閉ざされている。何事かと確認してみると、なんと昼休みで管理人が不在らしい。こちらは有料(\100)で内部が見学出来るのだが、これは仕方ないのでパス。先へ進もう。この段階で12時を少し回ったところ。確かにお腹が空いてきたぞ。
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高杉晋作誕生の地
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堀内運河
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萩城跡/指月山
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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
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| 気を取り直して萩城跡へ。さすがは観光の街萩、高い建物が全くなく視界が非常に良い。空が広い。市街部分はほとんど起伏が無いのでママチャリでも楽勝だ。三角形型の指月山(143M)がいよいよ間近に迫ってきた。堀内運河を渡るともう、指月公園(\210)。既に天守閣は無いが、萩城はこの場所に建てられていた。明治になって創建された、歴代藩主を祀る志都岐山神社にお参り。拝殿の前の舞殿が立派だ。
指月山の山頂を目指すという無謀なプランも考えたのだが時間と体力が許してくれそうにないので断念。近くにあった旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見ることにする。厚狭毛利家は元就の五男元秋を祖とする分家で8,300石。厚狭にあった長屋がこの萩の地に移築されている。萩の武家屋敷中では最大のものとなっている。
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菊ヶ浜海水浴場
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鶴江台の家並み
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鶴江台
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| これで時間はほぼ13:00。まだ1時間半残ってる。食事する時間が惜しいので、コンビニで買ったパンで誤魔化す。指月山の東側に回り込んで海沿いに走ってみる。周辺は菊ヶ浜海水浴場となっていて地元民な方々がちらほらと。長閑でよい光景。
萩商港を回り込んで松本川を渡り鶴江台へ行ってみることにする。現在は島のようになっているが、もともとは地続きだった鶴江台。その名の通り台地上の地形をなしている。運河が開削されたのは1855年のこと。水害の多かった松本川の流れをこの運河(姥倉運河)経由して分水することが目的だったという。さすがに潮の香りが強い。細い路地裏をだらだらと走行。観光客があまり入り込まないであろう地域なので少し緊張した。
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萩反射炉
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ラストは萩反射炉。本当は行くつもりは無かったのだが、せっかく鶴江台まで来てしまったのでついでに寄っていこう。山陰本線に並行して走る国道191号を東へ。左に進めば萩漁港という辺りで、右手にある小高い丘に問題の反射炉はある。高さ11.5メートル。1858年に造られた鉄製砲を作るための設備。現存するのは、静岡県韮山にあるものとこれだけ。幕末の長州藩の近代化に向けての意欲が伺える施設だ。
というわけで、半日かかった萩観光も終了。あとはひたすら移動するだけだ。東萩発(14:34)で益田着(15:48)。既に島根県に入っている。次の列車は1時間来ないので遅まきながら駅前の食堂で昼飯(オムライス:\600)を摂る。こういう時に食べる飯は美味い。益田発(16:49)。時折日本海が垣間見えて山陰本線の車窓は飽きが来ない。島根県を横断して、もうすっかり夜になって米子着(20:20)。本日は米子泊だ。
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